休暇15週目(15/16)終了「学校」
少しブログの更新が遅れていまして、ラストウィークを過ごしながら先週のことについて書こうと思います。
次男が無事に1学期を終えた。2年生の次男。幼稚園は年中から登園できなくなり、小学校に入学後、しばらく通っていたが3学期はほぼ欠席だった。今学期は時々欠席、9時から登校で、ほとんど通うことができた。再び学校に通う、ということに重きを置いた結果の、次男の気持ちとの落とし所がこの2つの条件だと思う。
Twitterでもブログでも次男が兄に抱く気持ちは何度か書いたことがあるが、兄ずっと家にいるのに、なんで自分だけ、と思うことは自然なことだろう。その気持ち(だけとは限らないが)と、2つの条件でなんとか釣り合いを取っている状態。ちょっとでもバランスを崩してしまうと一気に傾いてしまう、そんなピーキーな天秤を想像してしまう。
兄が再び登校することに関しては今は動いていない。しかし次男の登校に関してはあれこれ考えて手を尽くしている。この兄弟の動きの違いを冷静に考えると、時々自分は兄だけに対するネグレクトをしているのではという気持ちに苛まれ、自分がバラバラになるような感覚に陥ることがある。
そして同時に、自分に言い聞かせる。
『教員である自分よ。不登校の子をもつ親は、こんな気持ちを抱きながら過ごしているのだ。肝に銘じろ。』
今後、不登校の子をもつ親を、事情も分からずとやかく言うことはないだろう。
しかし親も子も苦しい。家庭を苦しめる学校とは一体何だ?そもそもなぜ苦しい?学校という存在が社会の中で占める割合は大きい。特に子どもは。だからこそ苦しいのかもしれない。
以前に比べると学校以外の受け皿は多くなったと言われているが、息子が不登校になってすぐの頃、学校は「◯◯学園へ行き、検査を受けてください。」としか言ってくれなかった。先生に聞いても誰も答えられなかった。自分たちで調べて、電話して、見学に行っては何が違う、そんなことをしているうちに息子は荒れていった。今では人に会えず、見学も、通院もできない。
最近息子が言っていた。「夏休みかあ。友達と神社にセミ取りに行ったなあ。◯◯ちゃんの家にもよく行ってたなあ。夏休みって、いつまであるんだっけ?もう忘れたな。」
そんなときも、あったね。
息子は学校に戻りたかったんじゃないかと思う。大きな存在の学校に。でも、去るものは追ってくれなかった。
次男にはなんとか、学校にしがみつかせている。正直そんな気持ちも抱いている。やっぱり、振り落とされるのは不安だよ。
なんやかんやで、大いなる存在の学校。だからこそ、頑張るのは学校。学校に行きたい、行かせたい人にとっては、受け皿、とかじゃない。学校が振り落としたものは、学校自らキャッチしなきゃ、振り落とされた人たちの中にはうちのように浮かばれない人もいる。
本当の意味での公教育、みんなの学校であってほしいと切に願う。願うだけじゃダメだね。行動しなきゃね。
それが不登校の子をもつ親として、教員として思う、複雑な気持ち。(先生たちではなく)頑張れ、学校。