明日息子と何しよう

いじめにより不登校(4年目)になった息子と過ごした、約4か月の休暇を取った親父の記録。

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休暇4週目(4/16)終了「出会い」

うわああああ、休暇の4分の1が終わってしまった。今週はなんだか早かったなあ。最近は毎日「何しよう」とは考えてないからかな。

 

さて「出会い」について。

 

息子は不登校になり4年目である。忌まわしいいじめにより学校に行けなくなり、学校の対応に絶望した私たちは転校を決めた。転校後しばらくは頑張って通っていたが、3か月程すると学校を休みがちになり、家で暴れることも増えた。その後は完全不登校となり、今に至る。

 

最近は暴れることもほとんどなく落ち着いてきたが、その引き換えなのか、人と会うことができなくなってしまった。6年生の先生とは最初から「会わない」と言い、最近では楽しみにしていた観光列車での旅は直前で「行かない」と言い、心療内科に行ってみようと誘っても悩んだ末に「行かない」と言った。後で、そのときどんな気持ちだったのかを尋ねると「新しく出会う大人は、大抵親切にしてくれて、フレンドリーに接してくれる。いい人なんだろうな、って思うけど、それが不安。」だそうだ。

 

息子の中で何かを抑え込んだのか、そのとき何がが作用したのか、長い長い自分自身との対話を経て、息子の言葉を借りると「運命を受け入れた」その過程で何かが作用し、人と会えなくなってしまったのかもしれない。

 

場面は変わって、先日、転校後の小学校の校長先生が定年退職を迎え、退任式の後に家を訪ねて来てくれた。なんと、手作りのアルバムを持って。数少ない息子の写真をまとめてくれたものだった。先生の、退職後まで息子を想ってくれる気持ちに、感激した。息子に「校長先生が来てくれたよ」と声をかけると、なんと「会う」と言うのだ。とても驚いた。息子が家族以外の人と話しているのを見るのはとても久し振りで、なんだか不思議な光景だった。校長先生も会うのは久し振りで「大きくなったね」と言った。それに対して息子がまたハキハキと受け答えをするのだ。さらに驚いた。

 

ちなみに、後でゆっくりとアルバムを見ると、転校した直後に撮られた息子の写真は、笑顔で、ちょっとオシャレで、転校する前の「普通に」学校に通っていた頃の姿そのものだった。けど、頑張りすぎていたんだろうなと思うと、とても切ない気持ちになった。

 

先日息子は中学校に入学した。新しい担任の先生が家庭訪問に来た。息子はちょっとオシャレをしてリビングにいたのだが、直前で「会わない」と言いだし、2階に上がってしまった。想定内だ。しかし先生の言った言葉は想定外だった。「じゃー、今度マイクラで会おう!」息子が好きなゲーム、マインクラフトの中で会おう、というのだ。そしてそれは、現実のものとなった。先生が、本当に、息子のマインクラフトの世界に会いに来た。これには息子も「本当に来てくれると思わなかった!」と興奮していた。ゲームの中で先生にあいさつしたり、お礼を言ったり、操作をレクチャーしたりする息子。なんと先生はその後1時間半程付き合ってくれた。先生の、どうにかして息子とコミュニケーションを取ろうとしてくれる気持ちと行動力に、感激した。

 

親としては、「いろいろな人と出会って、考えや、視点や、世界を広げてほしい。」と願っている。しかしこれはきっと、大人の自分がこれまでの経験と照らし合わせて、これが正解だと思っているからこう思うわけで、息子にとっては人と会うことが正解なのか不正解なのか分からないから、正解も不正解もない、そもそも「出会わない」という選択をしているのかもしれない。

 

どうしたものかと思っているが、息子を支えてくれる人はいい人ばかりだ。出会えればきっと、息子にとって信頼できる大人たちだ。ふと、息子の言葉をを思い出した。

 

「新しく出会う大人は、大抵親切にしてくれて、フレンドリーに接してくれる。いい人なんだろうな、って思うけど、それが不安。」

 

聞き流してたけど、不安、ってナンダ?

 

ひょっとして息子は、いい人と出会ったのにも関わらず、もし自分が変われなかったらどうしよう、と不安に思っているのだろうか。確かに変われていないと感じたら、また挫折を味わうことになってしまう。もう挫折は味わせたくない。何も自ら変えようとしなくていい、勝手に変わるかもしれないし、変わらなくてもそれでいい。

 

よし、今度息子に言ってみよう。