明日息子と何しよう

いじめにより不登校(4年目)になった息子と過ごした、約4か月の休暇を取った親父の記録。

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休暇9週目(9/16)終了「それぞれの時間」

休暇後半一週目終わり。今週は、特に何もなかったな…(笑)という日々を過ごしてしまうことで、体感時間が短く感じてしまうような気がしている。うーん、難しい授業、子どもの頃に感じてたヒマな1日、退屈なときは時間が長く感じるのか。ということは、今は特に何もしてないけど退屈ではない、ということなのかな。

 

今回も盛大な独り言から書きはじめてしまったが、最近息子に対して特に何もしていない。何もしていない、ことはないのかもしれないが、何もしない、ということをやっていると表現するのが正しいのか。今は特に口を出さず、ただひたすら見守る。成長があれば喜び、それ以外は特に何も言わず。

 

この体感時間については、息子も「一週間が早い。1日で3日過ぎてる感じ。」だそうだ。今日は1日動画編集をしていた。没頭できることがあることはいいことだと思う。充実しているのかな。

 

この休暇、息子のために取ったものではあるが、自分の時間も大切にしていきたいという気持ちもある。これまでやりたかったけど、できなかったことがたくさんある。このままぼーっとしてたら終わっちゃうなあ。よし、自分も頑張ろう!

休暇8週目(8/16)終了「休暇前半のまとめ(下)」

つづき

 

前回の記事では、休暇前半における自分の気持ちの移り変わりを次の5つの期間に分けて示した。

①何とかしなきゃ期

②ホームティーチャー期

③支えよう期

④聞き取り期

⑤認めることが大事だね期

 

今回は、③〜⑤のそれぞれの期間において、前回同様にまとめていく。

 

前回記事の②ホームティーチャー期のまとめにおいて「「学習」を受け入れるには、まだパワーが足りていないと思った。」と記したところである。息子は「学習」への苦手意識からか、その香りに過敏に反応しているように見えた。楽しんでいるようで、そうじゃない、何か戸惑いも混じったような。科学や工作、料理など本人が好きそうな活動を一緒にやってみたが、「付き合ってくれてる」感が滲み出ていた。

 

③支えよう期

息子と一緒に過ごす時間が増えたことは良いことだとは、息子の反応を抜きにしては言えない。少し息子との過ごし方を変えることにした。息子が望む、息子が幸せを感じる、自分を思ってくれていることが実感できる、自分を肯定してくれる、そんなことが感じられるような関わりをとおして、息子のパワーをチャージしていくことにした。

今でも鮮明に覚えていることがある。どうしても高校を休みたい日があった。そのとき、母は「ショッピングに行こう!」と隣町に連れて行ってくれたのである。とても嬉しかった。その後も母は自分がピンチのときには必ず支えてくれて、救ってくれた。あの日母がしてくれたように、自分は息子をショッピングに連れ出した。

 

今思うこと。

とにかく、息子のパワーをチャージすることに専念することにした。ただの甘やかしでは?自分自身の中にもそんな葛藤はあったが、この方向転換により息子はさらに心を開いてくれるようになり、徐々に学校を意識した言葉も出始めるようになってきた。息子の反応から、ダメージが大きさによってはこのような選択が必要なのだろうという考えに気付けたことがよかったと思っている。

 

④聞き取り期

息子と過ごす時間が密になり、また、心を開いてくれるようになってきたことで、どのようなことを考えているのかを詳細に聞くことができるようになった。徹底して自分を俯瞰し、現在の自分がおかれている状態を「運命」として受け入れようとしており、その考えが想像以上に深く、長い間自分自身と対話を積み重ねてきたようである。そのことで以前のように荒れることは少なくなったのかもしれないが、それは社会とのつながり、人との関わりを代償としたようにも感じた。

自分は正直どうしたらいいものか悩んだが、息子には「好きなことを伸ばす、苦手なことを克服することで自信を取り戻していく」という長期的な目標を提案した。次の図は、息子の考えのほんの一部をマインドマップにしたものである。

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その中で「できるだけ人と会う経験を積んでいこう。」という具体的な取り組みを息子に話した。ちょっと荒療治かもしれないが。

 

今思うこと。

やはり息子と深い話ができるようになったということが、互いを理解するという点で良かったと感じる。息子の話は驚くほど俯瞰的で、本当に面白い。息子も記憶を掘り下げるように、次々と話してくれるようになった。「人と出会う」ことは今でもできることとできないことがあるが、頑張れそうなときは息子自身で頑張っている場面も見られる。普段は思い切り好きなこと、得意なことを楽しみ、頑張れるときは頑張る。「うつしまるくん」にも毎日取り組んでおり、以前よりも苦楽のバランスがとれて罪悪感のない生活ができているように見える。

 

⑤認めることが大事だね期

では、前半のまとめの最後、今現在のことについてである。前回記事で「他人の人生はそう簡単にコントロールできるようなものではない」と述べたが、結局は「自分の人生は自分でどうにかするしかない」正しくは「したほうが効果的で効率的」と捉えるようになった。「好き」に勝ることはないし、受動的が「主体的」に勝ることはない。「主体的に、自分の人生を幸せにしていくことができる」よう支える。そのためには、まず、生きるパワー、前を向くパワー、をチャージすることができるよう、本人をまるっと肯定することが大事。最近はそんなことを考えて過ごしている。

 

これからのこと。

これからのこと、と書いておきながら、これからのことは分からない。しかしきっと、息子は息子なりに自立していくだろう。親はその環境をつくって、そして信じなきゃね。良さそうなところに飛んでいって、咲いたらいいよ。そんな気楽な、心構え。

 

おわり

休暇8週目(8/16)終了「休暇前半のまとめ(上)」

休暇も半分が終わってしまった。ああ…悲しすぎる。こんなにゆっくりできるのも、もうきっと定年退職後にしかないだろう。いやそれか定年前に急死したとしたらもう一生ないのか。尊い時間だ。大切にしないとなあ。そう思っているのにも関わらず、今日は寝て過ごしてしまった。寝るのは無駄だとは思ってないけど、少し後悔がある。まあ、欲求には負け続けてきた人生だからね。

 

とまあ盛大に独り言から書き始めてしまったが、今回は休暇前半のまとめをしてみる。とは言え全部書けないので、自分の気持ちや考え方を柱に、その時の息子の反応などをまとめていきたい。

 

先日記事にも書いたが、これまでで一番変化したことは、不登校の子どもをもつ親としての自分の考え方の変化である。休暇前を含め、その時の気持ちを◯◯期として名前を付けてみたら次の5つのようになった。

 

①何とかしなきゃ期

②ホームティーチャー期

③支えよう期

④聞き取り期

⑤認めることが大事だね期

 

では順にまとめていく。

①何とかしなきゃ期

これは休暇前。休暇を取る宣言をするとともに、息子に通院、通塾をしようと説得し、その場では同意を得られていたものの、通院初日に大荒れして撃沈。とにかく「何とかしなきゃ」「社会復帰させなきゃ」と焦っていた。休暇に入る直前までこの考え方だった。でもまあ、言い訳っぽくなるけど、仕事しながらだったらこんな考え方になるのは無理もないかなと思う。周りに「焦らないで。ゆっくりいこう。」と言われても、正直「いや焦るわ!あなたは親じゃないからそんな無責任なこと思うんや!この子をあと8年で社会に出さなあかんのやで!?」と思って、そういう言葉を受け止める心の余裕はなかった。

 

今思うこと。

焦って何とかなるものではない。焦ると「させよう」とばかり考えてしまい、逆効果。そしてそれは相手のことを考えて、と言いつつも実は自分が安心したい気持ちのほうが大きい。他人の人生はそう簡単にコントロールできるようなものではないことが身につまされた。なおさらうちの息子は心に大きな大きなダメージを負っているのだから、そんな他人からの働きかけで上手くいくならとっくに学校行ってる。心に受けたダメージの大きさによって、支える人は働きかけを慎重に選択する必要があると思う。

 

②ホームティーチャー期

休暇に入る直前、今日から通院という日に大荒れした息子の反応を見ていろいろと考えた結果、「学習の遅れは自分が家でなんとかしよう。社会で必要となる知識は自分が教えよう。」と考えるようになった。月曜は◯◯、火曜日は××、水曜日は△△・・・といった具合に。

しかし、自分はいい加減な性格。始めてみるとそれはゆるいものだった。やることは前日の夜「明日息子と何しよう?」と考えるいきあたりばったりスタイル。そう、ブログのタイトルにもなっている。やることをガチガチに計画せずに、「何をやるか、結果はどうなるか分かんないけど、とにかく息子と一緒に過ごす時間を作ろう」と、自分のいい加減さも肯定的に捉えられるようになった。休暇前、息子は「自分は何をされるんだろう?」というような不安を覚えていたんじゃないかと思っているが、このゆるさと一緒に過ごす時間が増えたことで息子のATフィールドが中和されていったような感じがしている。今はもう、毎日何かするということはしていないが、目標の一つであった「釣り」はまたやりたいと思っている。

 

今思うこと。

「学習の遅れをどうにかしよう」と考え、学習っぽさを出さずに色んな学びができればと思ったが、息子は何となく勘付いていたような気がする。少し構える?緊張する様子があった。息子の様子から「学習」を受け入れるには、まだパワーが足りていないと思った。学習は自分からし始めるようになるのを待つしかない。ひょっとするとしないかもしれないけど、それでも自立できる(本人の得意分野を生かして生きる)方向に導いけたらと考えている。この取り組みのよかったところは、息子との時間が増えたこと。これが以降の取り組みに繋がったと思っている。

 

つづく

休暇7週目(7/16)終了「黒歴史」

息子が小学校に入学して間もない頃まで、息子はいつも楽しそうだった。運動神経は良くはなかったが、ある程度物知りで、周りからはイケメンと言われ、優しく正義感があり、女の子からモテモテで、親から見てもリア充そのもので、息子はいいなぁ、なんて思っていた。

 

最近息子が、その頃のことを思い出して話してくれる。中でも印象的なのは、◯◯警察をしていた話だ。とにかく息子は、ゲームやYouTubeなどの子どもにとって魅力的なものが嫌いだったらしく、ゲームの話をしたり、「ユーチューブ〜♪」と歌ったりした友だちに対して「やめなさい!」と厳しく取り締まっていたらしい。

 

息子は言う。「何でそんなことしてたか分からない。あそこまでしなくてよかったと思う。」息子は今や、ゲームやYouTubeにどっぷりな生活をしている。だからこそ、そう思うようになったのだろう。視野が広がった、と言ってもいいのかもしれない。ちなみに親である自分は2つともどっぷりである。

 

また、息子はこれらのことを「黒歴史だ」と言う。どうやら息子は、この◯◯警察の取組みが自分がいじめられた原因に違いない、と行き着いたようだ。自分がいじめられた原因をつきとめるなんて、なかなかできるもんじゃないと感心すると同時に、確かにクラスにそんな警察がいたらめんどくせえなと思う。だからと言って、いじめられてもしょうがない理由なんてものはない。

 

息子は「まじめのくせに」と言われ、失敗をからかわれ続けて心が折れた。なるほど、つながった。まあ、つながったところでどうしようもないし、過去に戻って息子に「ちょっと柔らかくなりなよ〜」って言えたとしてもたぶん状況は変わらないだろう。変えることはできないが、自分で気が付いた、ということに価値があるのだと思う。

 

また、息子は言う。「あのまま大人になってたら、痛い人になってたと思う。」確かにそうかもしれない。「大人になって、挫折してたかもしれないね。大人になって挫折すると、なかなか復活できないんだよ。息子君は、これからだから。それに昔のことは昔のことで、否定はしなくていいよ。」と伝えた。

 

あの頃の自分も自分。否定はせず、受け入れた上で、やり直したらいい。そして、新たな道でまた別のリア充になったらいい。息子が好きな、パラレルワールドみたいな話しだが、そんな新たな世界線を生きれるなら、なんか楽しいんじゃないかな。

休暇6週目(6/16)終了「人生のレール」

先日職場のイベントに少し顔を出したところ、いろいろな人が声をかけてくれた。外部の方にもある程度事情を話すと、自分が異動したんじゃないか、辞めてしまったんじゃないかと心配してたと…ありがたくてウルウルしてしまった。

 

何人かに近況を話すうちに、これまでのことを何度か振り返ることができた。息子に何か変化はあったのか、状況は何か変わったのか、それ以外のことで何か変わったのか。休暇を取って1か月半が経過したが、息子は今も学校へ行っていない。勉強という勉強もしていない。なので状況は特に何も変わってない。しかし変わったと言えば変わった。一番変わったと思うのは息子ではなく、自分の心の部分、それはもう大きく変わった。

 

息子には、高校からでいいから学校に戻ってほしい。心の病を治してほしい。少しでもいいから、勉強をしてほしい。みんなの元に戻れるように。社会に出られるように…。これらを実現することで、どうなるのか。自分自身が安心しようとしていたかもしれない。そう思うようになったのだ。

 

息子は何のために学校に行くのか、何のために心の病を治すのか、勉強するのか…その本来の目的は、息子が幸せになるためである。でも本当にそのレールの先に息子の幸せはあるのだろうか?逆に考えると、幸せになるために、これらの中には息子にとっては関係のないレールがあるかもしれない。

 

レールは一本ではない。そう考えると、だんだんと焦りはなくなってきた。不登校の息子を支えていくスタートラインに、やっと立てた気がしている。

 

休暇5週目(5/16)終了「日幸浴」

2週間前、念願の自作PCを完成させてからというもの、一日中マインクラフトにどっぷりな息子。Java版のマイクラで影MODを楽しむという夢が叶い※「今まで生きてきた中で人生で一番幸せだ!」そんなセリフじみた言葉で感動を爆発させていた。

 

※今までiPadでやっていたマインクラフトのPC版で、ゲーム中の景色がリアルになるという追加機能「影MOD」を導入したという話。ある程度スペックが高いPCでなければ動かすことができない。

 

ああそうか、このセリフ。どこかで聞いたことがあると思ったら、1992年のバルセロナオリンピック岩崎恭子選手が金メダルを取ったときに言った言葉と全く同じじゃないか。

 

当時自分は小学生だったが、よく覚えている。TVの中の大人たちが言っていた。「まだ14歳の子どもなのに、『今まで生きてきた中で』だなんて〜」大人たちにはこういう感覚があったからこそ、このセリフは名言になったのかもしれない。

 

当時、岩崎選手は14歳。現在、息子は13歳。同世代じゃないか。ひょっとするとこのお年頃の子どもたちは、周りの大人が気付かないうちに自分の人生を振り返りはじめているのかもしれない。そして、岩崎選手も、うちの息子も、同じような年齢で幸せの新記録を塗り替え、人生の絶頂を迎えた。

 

ただ、正直に話そう。自分の心の奥底ではまだこんな気持ちがちらちらとうごめいている。「いや、オリンピック目指して頑張ってきて、金メダルは確かに絶頂だけど、不登校でPC買ってもらって絶頂はちょっと言い過ぎでは…」正直に話したから許してほしい。もう言わない。

 

幸せかどうかは本人が決めることだ。誰が何と言おうと、とにかく息子はいま「今まで生きてきた中で人生で一番幸せ」なのだ。振り返ったら、そういう人生だったのだ。でもそういうことをいま思ってくれて、それを言葉で表現してくれて、笑顔を見せてくれて、親としては嬉しかった。

 

息子は毎朝自分から国語のドリル「うつしまるくん」だけはやっている。これは息子との約束だ。「PCやゲームは好きなだけやったらいい。その代わり勉強もすること。」息子はきちんと約束を守っている。これを始める前は字を書くことをかなり嫌がっていだが、ずいぶんしっかりした字を書けるようになってきた。集中して、15分程で終えているようだ。

 

少し欲張って、算数もと思ったが失敗だった。1日15分の勉強。だがそれでいい。今はそれを免罪符として、堂々と胸張って学校へ行かずPCを、ゲームを思う存分やったらいい。それでたくさん幸せの貯金をしたらいい。

 

息子にとって、いまはそれが大事だと思えるようになった休暇5週目。日々幸せを浴びる、日幸浴。

 

休暇4週目(4/16)終了「出会い」

うわああああ、休暇の4分の1が終わってしまった。今週はなんだか早かったなあ。最近は毎日「何しよう」とは考えてないからかな。

 

さて「出会い」について。

 

息子は不登校になり4年目である。忌まわしいいじめにより学校に行けなくなり、学校の対応に絶望した私たちは転校を決めた。転校後しばらくは頑張って通っていたが、3か月程すると学校を休みがちになり、家で暴れることも増えた。その後は完全不登校となり、今に至る。

 

最近は暴れることもほとんどなく落ち着いてきたが、その引き換えなのか、人と会うことができなくなってしまった。6年生の先生とは最初から「会わない」と言い、最近では楽しみにしていた観光列車での旅は直前で「行かない」と言い、心療内科に行ってみようと誘っても悩んだ末に「行かない」と言った。後で、そのときどんな気持ちだったのかを尋ねると「新しく出会う大人は、大抵親切にしてくれて、フレンドリーに接してくれる。いい人なんだろうな、って思うけど、それが不安。」だそうだ。

 

息子の中で何かを抑え込んだのか、そのとき何がが作用したのか、長い長い自分自身との対話を経て、息子の言葉を借りると「運命を受け入れた」その過程で何かが作用し、人と会えなくなってしまったのかもしれない。

 

場面は変わって、先日、転校後の小学校の校長先生が定年退職を迎え、退任式の後に家を訪ねて来てくれた。なんと、手作りのアルバムを持って。数少ない息子の写真をまとめてくれたものだった。先生の、退職後まで息子を想ってくれる気持ちに、感激した。息子に「校長先生が来てくれたよ」と声をかけると、なんと「会う」と言うのだ。とても驚いた。息子が家族以外の人と話しているのを見るのはとても久し振りで、なんだか不思議な光景だった。校長先生も会うのは久し振りで「大きくなったね」と言った。それに対して息子がまたハキハキと受け答えをするのだ。さらに驚いた。

 

ちなみに、後でゆっくりとアルバムを見ると、転校した直後に撮られた息子の写真は、笑顔で、ちょっとオシャレで、転校する前の「普通に」学校に通っていた頃の姿そのものだった。けど、頑張りすぎていたんだろうなと思うと、とても切ない気持ちになった。

 

先日息子は中学校に入学した。新しい担任の先生が家庭訪問に来た。息子はちょっとオシャレをしてリビングにいたのだが、直前で「会わない」と言いだし、2階に上がってしまった。想定内だ。しかし先生の言った言葉は想定外だった。「じゃー、今度マイクラで会おう!」息子が好きなゲーム、マインクラフトの中で会おう、というのだ。そしてそれは、現実のものとなった。先生が、本当に、息子のマインクラフトの世界に会いに来た。これには息子も「本当に来てくれると思わなかった!」と興奮していた。ゲームの中で先生にあいさつしたり、お礼を言ったり、操作をレクチャーしたりする息子。なんと先生はその後1時間半程付き合ってくれた。先生の、どうにかして息子とコミュニケーションを取ろうとしてくれる気持ちと行動力に、感激した。

 

親としては、「いろいろな人と出会って、考えや、視点や、世界を広げてほしい。」と願っている。しかしこれはきっと、大人の自分がこれまでの経験と照らし合わせて、これが正解だと思っているからこう思うわけで、息子にとっては人と会うことが正解なのか不正解なのか分からないから、正解も不正解もない、そもそも「出会わない」という選択をしているのかもしれない。

 

どうしたものかと思っているが、息子を支えてくれる人はいい人ばかりだ。出会えればきっと、息子にとって信頼できる大人たちだ。ふと、息子の言葉をを思い出した。

 

「新しく出会う大人は、大抵親切にしてくれて、フレンドリーに接してくれる。いい人なんだろうな、って思うけど、それが不安。」

 

聞き流してたけど、不安、ってナンダ?

 

ひょっとして息子は、いい人と出会ったのにも関わらず、もし自分が変われなかったらどうしよう、と不安に思っているのだろうか。確かに変われていないと感じたら、また挫折を味わうことになってしまう。もう挫折は味わせたくない。何も自ら変えようとしなくていい、勝手に変わるかもしれないし、変わらなくてもそれでいい。

 

よし、今度息子に言ってみよう。